量子力学的上水道

本部での歓迎会が月曜日。

 
 月曜から山崎、白州、マッカランアードベッグ

火曜朝は流石にちょっとだけ辛かった。
山崎の蒸留所が踏み切りの脇にあってダサいだのとワイワイ騒いできました。お偉方といるのが苦ではないのは恐らく親と住んでいるからそういう話には慣れているのだろうと思う。若い人は嫌がるからね。

そして遂に4とお別れの日でした。5も使い慣れてしまって既に馴染んでます。
 
 まさに感動的な体験だった
これ以降の電話という概念を全て取り払ってしまった発明だったわ。
Are you getting it? These are NOT THREE separate devices, this is ONE device. And we are calling it "iPhone". Today... today Apple is going to reinvent the "PHONE". (from 2007 Apple keynote)

目立つ様にリンゴんとこ、覆い焼き加工して小さな汚れなんかも全て消しておきました笑。下取りされますように。

さて、今日はトイレの後の手洗いについて。
トイレそのものをお手洗い、手水場などと呼びますが、私が話題にしているのは自分または近くのトイレを流しながら手を洗う行為についてです。
物理で量子を学んだ人のどれ程がこの感覚を持っているかは自信がありませんが、少なくともその概念を心底面白おかしく深く深く理解した私にとっては冗談半分で常にこのように思っています:
 今流したトイレの水で手を洗っている
笑う人がいるでしょう。そう、水の存在を表す波動関数はその確率の流れの密度が広がりを持っていて、その2乗である存在確率は無限に遠くまで行っても真にゼロにはならない。

つまり、蛇口から下に向かって流れ、ある意味でパイプを解して下水道とマクロにつながった瞬間に、汚水の波動関数上水道のそれとの間の重なりは桁違いに大きくなると言う、衝撃の事実。

勿論、桁違いに大きくなったところで、衛生学で問題になるような超超巨視的な混ざり合いは一切ありませんが、少なくともその存在確率という意味ではウ◎と増えてしまっているというだけですけど。

化学のアボガドロ数の概念を心底面白おかしく深く深く理解した人が、これまた冗談半分で、コップ1杯の水の中にイエスキリストやモーツァルトといった世界の偉人の体が朽ちて流れ出したであろう水分子が数十個ずつ入っていると思って飲んでいるのと、似たような物です。

汚くてすみません。